ひとことで言うと、この二つの事件で、最高裁判所は、自衛隊が憲法9条に適合するかどうかについて判断を示していません。長沼ナイキ事件では、訴えの利益(判決を求める実益)が失われたとして訴えが退けられました。百里基地事件では、国が私人と対等の立場で結んだ私法上の契約には9条が直接適用されないとされ、契約の効力は私法の規定で判断されました。
この記事は、9条の解釈の当否や、自衛隊・安全保障の評価には入りません。裁判所が「何について判断し、何について判断に入らなかったか」だけを、判決文で確かめて書きます。高度の政治性がある国家行為についての判例(統治行為)は司法権の限界の記事、長沼ナイキ事件の訴えの利益の詳しい説明は訴えの利益の判例の記事に任せます。
扱うのは、最高裁判所まで争われたこの二つの事件です。長沼ナイキ事件は、控訴審の札幌高等裁判所の判決と、上告審の最高裁判所の判決を分けて見ます。
身近な例で考えると
9条から離れた架空の話で、「裁判所が判断する順番」をつかみます。登場するのは、川の近くに住むかなさんと、みどり市です。
場面1:訴えの入口で終わる
- 大臣が、洪水を防ぐための保安林(法律で守られる森林)の指定を解除した。木が切られると、かなさんの家は洪水の危険が高まる。
- かなさんは、解除の処分の取消しを求めて訴えた。かなさんは「解除の目的そのものが違法だ」とも主張した。
- 裁判の途中で、代わりのダムなどが造られ、洪水の危険は解消された。
- 裁判所は、かなさんが処分の取消しを求める実益(訴えの利益)は失われたとして、訴えを退けた。解除の目的が違法かどうかには、入る必要がなくなった。
場面2:国や市が「買い手」になる契約
みどり市が、施設の用地として、私人から土地を買う契約を結びました。市は、命令する立場ではなく、ふつうの買い手と同じ立場で契約しています。この契約が有効かどうかは、民法などの私法のルールで判断するのが原則です。
本物の長沼ナイキ事件は場面1に、百里基地事件は場面2に近い形で判断されました。ただし、たとえ話では「市」としましたが、本物の事件で問題になったのは国の行為で、事実関係もずっと複雑です。
判決ではこう決まっている
関係する条文
- 憲法9条:1項は戦争の放棄、2項は戦力の不保持と交戦権の否認を定める。
- 憲法81条:最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。
- 憲法98条1項:この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
- 民法90条:公の秩序又は善良の風俗に反する法律行為は、無効とする。
長沼ナイキ事件(札幌高等裁判所の判決)
保安林の指定を解除した処分の取消しを、周辺の住民が求めた事件です(一般に「長沼ナイキ事件」と呼ばれます)。控訴審は、札幌高等裁判所昭和51年8月5日判決(昭和48年(行コ)第2号)です。最高裁判所の判決ではなく、高等裁判所の判決です。
- 主文:「原判決を取消す。」「被控訴人らの訴えはいずれもこれを却下する。」処分をした側の控訴を受けて第一審の判決を取り消し、住民の訴えを却下(入口で退けること)しました。
- 訴えの利益:洪水防止などの利益は、ダムなどの施設によって補われるに至ったので、その利益を根拠に訴えた住民は「もはや本件解除処分を争い、その取消しを求める具体的利益を失つている」とした。
- 前文の「平和のうちに生存する権利」:前文の平和は「崇高な理念ないし目的としての概念にとどまる」もので、「平和のうちに生存する権利」も、裁判規範として現実的・個別的な内容をもつものとして具体化されているものではない、とした。
- 9条と住民の利益:9条は「国家機関に対する行為の一般禁止命令であり、その保護法益は一般国民に対する公益というほかなく」、特定の国民の特定の利益の保護が具体的に配慮されているとは解し難い、とした。そのため、住民が処分を争う利益の根拠にはならないとしました。
裁判所ウェブサイトの要旨によれば、この判決は、訴えを不適法として却下したうえで、一審以来の当事者の主張の経過と一審判決の判断にかんがみ、本案(訴えの中身)の争点の一つである「自衛隊等の憲法適合性に関する司法審査の可否」についても判断を示しています。この記事では、判決の結論(却下)を決めた訴えの利益の判断を中心に扱います。
長沼ナイキ事件(最高裁判所の判決)
上告審は、最高裁判所第一小法廷昭和57年9月9日判決(昭和52年(行ツ)第56号)です。主文は「本件上告を棄却する。」で、訴えを却下した高等裁判所の判断が維持されました。
- 森林法27条1項の「直接の利害関係を有する者」には原告適格(訴えを起こせる資格)があるが、代わりの施設の設置で洪水や渇水の危険が解消されたと認められるに至ったときは、訴えの利益は失われる(詳しくは訴えの利益の判例の記事)。
- 木を切った後の跡地の利用によって生ずる利益の侵害は、指定解除処分の取消訴訟の原告適格を基礎づけるものには当たらない。
- 平和的生存権に関する原審の判断が不当だとする上告理由は、「原判決の右結論に影響のない点についてその判示の不当をいうものにすぎない」として退けた。
最高裁判所は、平和的生存権や9条について、自ら判断を示していません。高等裁判所の判断のうち、その部分が正しいかどうかは、結論に影響しないとして取り上げなかったのです。
百里基地事件(最高裁判所の判決)
自衛隊の基地の建設を目的として、国が私人から土地を買い受けた売買契約などの効力が争われた事件です(一般に「百里基地事件」と呼ばれます)。最高裁判所第三小法廷平成元年6月20日判決(昭和57年(オ)第164号)。原審は東京高等裁判所昭和56年7月7日判決で、主文は「本件各上告を棄却する。」です。
- 98条1項:「国務に関するその他の行為」とは、公権力を行使して法規範を定立する国の行為を意味する。国の行為であっても、私人と対等の立場で行う国の行為は、法規範の定立を伴わないから、これに当たらない。
- 9条の適用:9条は、その憲法規範としての性格上、私法上の行為の効力を直接規律することを目的とした規定ではなく、人権規定と同様、私法上の行為に対しては直接適用されない。
- 例外の余地:国が行政の主体としてでなく私人と対等の立場で、私人との間で個々的に結ぶ私法上の契約は、その契約が成立の経緯と内容において「実質的にみて公権力の発動たる行為となんら変わりがないといえるような特段の事情のない限り」、9条の直接適用を受けない。
- 民法90条との関係:9条の規範は、そのままの内容で民法90条の「公ノ秩序」の内容となって私法上の行為の効力を一律に否定するのではなく、私的自治の原則や取引の安全などの私法上の規範によって相対化され、「公ノ秩序」の内容の一部を形成する。
- この事件:契約の当時、自衛隊のために国と私人が私法上の契約を結ぶことが、社会的に許容されない反社会的な行為であるとの認識が、社会の一般的な観念として確立していたとはいえない。公序良俗違反にはならない。
- 違憲審査の要否:この売買契約の私法上の効力の有無を判断するについては、防衛庁設置法とその関連法令について違憲審査をすることを要するものではない。
裁判所が判断したこと・判断に入らなかったこと
| 判決 | 判断したこと | 判断に入らなかったこと |
|---|---|---|
| 札幌高裁 昭和51年8月5日(長沼) | 訴えの利益の喪失、平和的生存権・9条は住民の訴えの利益の根拠にならない | 結論は却下。要旨によれば、本案の司法審査の可否にも別に判断を示した |
| 最高裁 昭和57年9月9日(長沼) | 原告適格と訴えの利益。上告棄却 | 平和的生存権に関する原審の判断の当否(結論に影響しない) |
| 最高裁 平成元年6月20日(百里) | 98条1項・9条は私法上の契約に直接適用されない。公序良俗違反でない | 防衛庁設置法などの違憲審査(要しないとした) |
どの判決も、「その事件を解決するのに、どの問題を判断する必要があったか」という点から読むと、判決の組み立てが分かります。日本の違憲審査は、具体的な事件の解決に必要な範囲で行われます。その仕組みは違憲審査の記事で扱っています。
当てはまる例・当てはまらない例
- 当てはまる例:国が、物品の調達や公共施設の用地の取得のために、私人と対等の立場で個々に契約を結ぶ。百里基地事件の判決は、こうした私法上の契約は、特段の事情のない限り9条の直接適用を受けないとしました。
- 当てはまる例:場面1のかなさん。代わりの施設で危険が解消されると、処分の取消しを求める訴えの利益は失われます(長沼ナイキ事件の最高裁判決)。
- 当てはまらない例:契約が、成立の経緯と内容から、実質的にみて公権力の発動と変わらない場合。百里基地事件の判決は、この「特段の事情」がある場合を、直接適用を受けないとする範囲から外しています。
- ひっかけやすい例:「最高裁は長沼ナイキ事件で、平和的生存権は裁判規範にならないと判断した」と考えること。そう述べたのは札幌高等裁判所です。最高裁は、その部分は結論に影響しないとしました。
試験ではここをまちがえやすい
- 裁判所の取り違え:長沼ナイキ事件の平和的生存権と9条の保護法益の判断は、札幌高等裁判所のものです。最高裁判所の判断と混ぜないようにします。
- 限定の落とし:百里基地事件の判決は「特段の事情のない限り」9条の直接適用を受けないとしました。「国の契約には一切9条が及ばない」と広げた形に注意します。
- 98条1項の意味:「国務に関するその他の行為」は、公権力を行使して法規範を定立する国の行為です。国が当事者となる行為のすべてではありません。
- 民法90条との関係:9条の規範はそのままの内容で「公ノ秩序」になるのではなく、私法上の規範によって相対化され、その内容の一部を形成します。
- 統治行為との混同:高度の政治性を理由に審査しないとした最高裁の判例は、別の事件(砂川事件・苫米地事件)です。この記事の二つの事件の最高裁判決は、その理由で退けたものではありません。
○✕でたしかめよう
問1(このサイトのオリジナル問題)
判例は、国が私人と対等の立場で個々に結ぶ私法上の契約は9条の直接適用を受けないとしたが、契約が実質的にみて公権力の発動たる行為と変わらないといえる特段の事情がある場合を、その範囲から除いている。
答え:○ 分かれ目は、判決が残した限定です。最高裁判所第三小法廷平成元年6月20日判決は、国が私人と対等の立場で個々的に締結する私法上の契約は、成立の経緯と内容において実質的にみて公権力の発動たる行為となんら変わりがないといえるような特段の事情のない限り、9条の直接適用を受けないとしました。「国の私法上の契約には例外なく9条が及ばない」と覚えていると✕に見えます。
問2(このサイトのオリジナル問題)
長沼ナイキ事件の最高裁判所の判決は、代わりの施設の設置で訴えの利益が失われたとしたうえで、前文の平和的生存権は裁判規範として具体的な内容を持たないと、自ら判断を示した。
答え:✕ 分かれ目は、どの裁判所の判断かです。平和的生存権は裁判規範として具体化されていないと述べたのは、札幌高等裁判所昭和51年8月5日判決です。最高裁判所第一小法廷昭和57年9月9日判決は、平和的生存権に関する原審の判断の不当をいう上告理由を、原判決の結論に影響のない点についての主張にすぎないとして退けました。正しくは、最高裁は自らの判断を示していません。
問3(このサイトのオリジナル問題)
百里基地事件の最高裁判所の判決は、国が基地の用地として私人から土地を買い受けた売買契約の私法上の効力を判断するについて、防衛庁設置法などの関連法令の違憲審査をすることを要しないとした。
答え:○ 分かれ目は、契約の効力の判断に何が必要かです。平成元年6月20日判決は、この売買契約は国がその活動上生ずる個別的な需要を賄うためにした私法上の契約で、効力発生の要件としては一般の私法上の要件のほかになんらの準拠法規を要しないから、防衛庁設置法とその関連法令について違憲審査をすることを要しないとしました。基地の用地なのだから自衛隊の合憲性を先に決めるはず、と考えると✕に見えます。
この分野の○✕は、行政書士の5分○✕ドリルの「憲法」で続けて解けます。
まとめ
- 長沼ナイキ事件の札幌高裁(昭和51年8月5日):第一審判決を取り消し、訴えの利益がないとして訴えを却下。平和的生存権・9条は住民の訴えの利益の根拠にならないとした。
- 長沼ナイキ事件の最高裁(昭和57年9月9日):上告棄却。平和的生存権に関する原審の判断の当否は、結論に影響しないとして判断していない。
- 百里基地事件の最高裁(平成元年6月20日):私人と対等の立場で行う国の行為は98条1項の「国務に関するその他の行為」に当たらず、9条は私法上の行為に直接適用されない(特段の事情のない限り)。
- 9条の規範は私法上の規範で相対化されて「公ノ秩序」の一部となる。契約は公序良俗違反でなく、関連法令の違憲審査は要しない。
次に読むなら、憲法の判例まとめがおすすめです。統治の判例を「裁判所が判断した問題は何か」で並べ直すと、この記事の二つの事件の位置がはっきりします。
参考にした公式の情報(2026年10月確認)
判例は、裁判所ウェブサイトで裁判年月日・裁判所・事件番号・判示事項・裁判要旨を確かめ、理由の言葉は判決全文で確かめました。札幌高等裁判所の判決は、裁判所ウェブサイトに載っている判決文の範囲で確かめました。条文は、e-Gov法令検索で令和8年4月1日時点の版を指定して確かめました。
- 裁判所「札幌高等裁判所 昭和51年8月5日判決(昭和48年(行コ)第2号)」(保安林解除処分取消請求控訴事件)
- 裁判所「最高裁判所第一小法廷 昭和57年9月9日判決(昭和52年(行ツ)第56号)」
- 裁判所「最高裁判所第三小法廷 平成元年6月20日判決(昭和57年(オ)第164号)」
- e-Gov法令検索「日本国憲法」(9条、81条、98条1項)
- e-Gov法令検索「民法」(90条)
働く人の法律試験ノート